土壌調査のフェーズ1の地歴調査では、思わぬ形で近代日本史に触れることがあります。
東京都某所の川沿い、現在は役目を終えた浄水場や高等学校、マンション、スーパーマーケット、野球場、警察署が立地している一帯にはかつて製絨所がありました。「絨」は厚手の柔らかい毛織物のことで、絨毯の文字に使われています。敷地面積は約100,000㎡、敷地の端から端まで長いところで500m以上あり、大きな工場でした。
当時毛織物を輸入に頼っていた日本は、国内製造を目指し、河畔の芦原に毛織物工場の建設工事を始めます。ちなみに、関東地方では羊の牧畜がうまくいかず、羊毛の多くを輸入に頼っていたそうです。
この工場では主に軍服向けに毛織物をつくっていました。当時の日本は日清戦争から日露戦争、満州国へとアジア大陸の北部に軍を進めており、それに伴い毛織物の需要が増大し、工場が拡張されていきました。工場の動力は水運された石炭を使った蒸気機関で、明治16年には工場内では発電した電気を使った電灯が設置されたそうです。
また、福利厚生施設も充実しており、工場内に図書館や運動場、診療所、保育所や浴場がありました。診療所には30くらいのベッドがあり、手術室もあったそうです。一つの町がそのまま工場内にあるように見えますね。
戦後、製絨所は民間に払い下げられましたが、主要な得意先が消滅した上に、広大な敷地と過剰な生産設備を抱えた工場は昭和36年に閉鎖され、跡地は分割され、地方自治体や鉄道会社等に売却されました。現在の跡地は、工場の面影はほとんど残ってはいませんが、一部の煉瓦塀などは目立たないですが今も残りその歴史を語っています。